ディディディディーケイド
2017.10.11更新
気付けば前回の記事から半年くらいたっているんですかね。半年なんて時間はあっという間に過ぎますよね。
ほら,この年になると半年なんてものの数に入らないじゃないですか。赤ちゃんパンダの半年はそりゃあビックリするくらい成長しますけど。
そして,このブログ記事は,当初は暇になったら書いていたわけですが,おかげさまで暇な時間がどんどん少なくなってくるわけですね。誤解を招くといけないので説明しておきますが,別に儲かってるわけではないです。ただ忙しいだけです。「忙しいなら依頼するのやめちゃおうかな。。。」とかそういうのやめてください。
ただし,忙しいからとか理由をつけているといつまでもブログを書かないわけですよ。そうすると,半年なんてかわいい時間の流れ方じゃなくてすぐに1年,2年は経ちますよ。それは,なんとも寂しいじゃないですか。
というわけで(どういうわけで?),モアーズ横須賀店20周年記念,10年前と20年前の世界を振り返ってみましょう。
まずは,今から10年前の世界。時は,平成19(2007)年です。
当時の総理大臣は,途中までが安倍さん,途中からが福田さんです。いい感じで自民党政権が傾き始めた頃ですね。いけないいけない。政治的発言は危ない。
われらが最高裁長官は島田仁郎さん。在外国民違憲訴訟や婚外子違憲訴訟などでは,多数意見を構成し,優れたバランス感覚をお持ちの方だと思っていました。
流行語大賞は,「どげんかせんといかん」と「ハニカミ王子」。「どげんかせんといかん」の方は,途中から「せんとくん」のイメージとごっちゃになって,「どげんかせんとくん」という意味不明な言葉として覚えてしまっています。私としては,もはや「どげんかせんとくん」でいいです。ハニカミ王子についてはノーコメントで。
私は当時大学3年生だったわけですが,私のようにつまずくことなく大学生になった同級生は,就活の真っただ中にあったわけです。当時は,リーマンショック直前期のいわゆるミニバブル時代であり,売り手市場もいいところ,1990年代の就職氷河期はどこへやらという空気感でした。
ちなみに,私は4年時の労働法の授業の時(再々履修)にあまりにも内容がわからず,「私の周囲の就活生たちも労働基準法などには苦しめられている」という「4年生だから単位ください」アピールをしたところ,かろうじてCをもらったという過去があります。そんな人間でもその後に努力すれば弁護士になれるんですから,みなさんも夢をあきらめないで頑張ってほしいですね。どの口が言うんですかね。
メンズファッション界には,ジャケットを多用したきれい目モードの時代が到来し,別珍ジャケットが大ブームとなりました。私の同期に紫色の別珍ジャケットを着ていた男がいましたが,次第に色が褪せていったのには哀愁を感じました。
私自身は,渋谷や原宿に出没するようになり,なけなしの金をはたいてチェックのジャケットを買う日々が到来します。いやぁ,背伸びしてますねぇ。過去の自分を思い返しても恥ずかしさを感じないのは,感情が死んでいるからでしょうか。
それまで毎年参加していた横高音楽部の定演には,はじめて不参加となった年でもありました。理由ははっきり覚えていませんが,サークルとかサークルとかいろいろあったんでしょう。今となってみれば,その時の自分自身の判断は間違っていなかったように思います。
サークルは,法政大学国際法研究会という学術団体に所属していましたが,幹部学年としてアカデミックフォーラムという研究発表大会を行わなければならなくなり,「国際環境法」という壮大なテーマで様々な準備をしました。なんだかんだ言って青春だったんでしょうね。何を食べても太らなかったのは,ちょうどこの頃までではないでしょうか。
モアーズ横須賀店10周年記念の記憶は,少しだけあります。その頃,バイトもしていなかった私は,慢性的な貧困に悩まされていました。じゃあバイトしろよというツッコミは,すでに100万回聞いていますのでもういいです。たぶんですが,11月に行われるアカデミックフォーラムに備えて細身のスーツを買ったのではないかと思います。いやwwww細身ってwwww。その細身のスーツは,平成25年頃までは体が入った記憶がありますが,その後は体の相性が悪くなったので行方不明です。
さて,20年前の世界は,平成9(1997)年です。
当時の総理大臣は,橋本龍太郎さん。橋龍かっこよかったなぁ。特に,日米貿易摩擦の時に通産相としてアメリカと折衝していた時はかっこよかった。爆笑問題の日本言論でも取り上げられていて,後に中学生の時に読んだ記憶があります。
最高裁長官は,途中まで三好達さんで,途中から山口繁さん。三好さんは,愛媛玉串料訴訟の時の反対意見が印象的でした。内容はともかくとして,自らの心情を吐露したのは,裁判官としてそんなに非難されることではないように思います。山口さんは,著名な違憲判決がなかった時期ということもあり,ほとんど印象がないです。
流行語大賞は,「失楽園」。当時小学6年生だった私が映画館に見に行くはずもないのですが,その後ドラマ化された際には,古谷一行と川島なお美が平日の夜10時にしては濃密すぎる濡れ場を演じていて,少年のこころには過激に過ぎたように記憶しています。
また,この年の漢字は,「倒」。戦後最大の倒産と言われた山一証券の倒産劇を少年だった私も鮮明に記憶しています。社長の言う通りですよね。社員は悪くないんですよ。ただ,もっと言いたいのは,社長も就任したばかりなので,社長も悪くないんですよ。あの場にいた人はみんな悪くないんですよね。悪いのは,表に出てこない人たちです。
特に私の経歴を隠す必要もないですが,当時の私は横須賀市立浦賀小学校の6年生です。小学校の6年間って長いですよね。いいかげんにあの長ったらしいテンポでいつまでも終わらない校歌を歌うのにも辟易としてきた年頃です。
私の幼い頃というのは,どちらかというと暗黒時代で,その暗黒時代は小学1年生に始まり,小5・小6の小休止をはさんで中学3年生まで続きます。稀代のリベラリストであることを自負する私としては,学校の集団生活についていけなかったというか,周囲のクラスメイトとそりが合わなかったというか,教師の言っていることが意味不明で理解できなかったというか,とにかく意味のない規則に従う必要性を最後まで理解できなかったというか,そんな感じの幼少期でしたので,小学校や中学校というところは監獄だと思ってましたね。はい。
そんな中でも,小5・小6のクラスは,比較的リベラルな空気の漂うクラスだったので,のびのびと学校生活を送ることができました。そういう意味では,1997年は私にとって幸福な時代だったと思います。
小学6年生の私に最も影響を与えたのは,映画「もののけ姫」の公開です。これはすごかった。はじめて友達同士で映画を見に行ったのは,この映画です。当時のショッパーズプラザ横須賀内の映画館は,幕間の入れ替えが不十分なんですね。なので,入場券を買って1回場内に入ってしまえば,あとは見放題ということも可能だったわけです。
はじめてもののけ姫を見た印象は,「なんだかよくわからないけれど,とてつもなくすごい映画だ。」というものでした。よくわからないのでもう1回見ると,やっぱりよくわからないのでもう1回見ます。よくわからないならもう見に行かなきゃいいんですけど,見に行きたくなる何かがあるんですね。気付くと劇場で12回見ました。それくらい虜になった映画でした。そして,その印象は,20年経った今でも変わりません。
そう考えると,私にとっての人生の晴れ上がりというのは,この1997年だったような気がします。それまでの人生の記憶はとても曖昧ですが,もののけ姫を見に行った後の記憶は比較的鮮明です。私はその時,はじめて自らのリベラリズムに気付き,その方向に進むような人生の方向へ舵を切ったのだと思います。
モアーズ開店時の記憶は,ひどく曖昧です。モアーズができる前に,あの場所に何があったのかも全く覚えていません。ただ,当時から中央のヤマハ小林楽器店に通っていた私にとっては,浦賀に住んでいた同級生よりも中央を身近に感じていたことから,モアーズの開店時からよくお店に行っていたように思います。
モアーズのポイントカードは,満12歳からしか作ることができないのですが,モアーズ横須賀店が開店した1997年10月1日は,誕生日前でしたのでまだ11歳でした。この時の悔しさは忘れられません。
さっきから何の脈絡もなくモアーズ横須賀店の話をしていますが,今年はモアーズ横須賀店開店20周年です。10月1日の開店日には,超絶怒涛の値引きやポイント増額など,大盤振る舞いもいいところ,しまいには先着順でお菓子がもらえたりとお祭りと呼ぶにふさわしい一日です。
モアーズが開店した1997年からしばらくの間は,週に2回ヤマハに行っていましたから,たまに本屋を覗いたりしていました。しかし,お金のない私はそのうちモアーズに行かなくなり,ポイントカードが失効してしまう羽目になります。いやぁ痛恨のミス。
2001年。私は神奈川県立横須賀高校に入学し,横須賀中央経由で高校に通学するようになります。そうなると,学校帰りにどうしてもモアーズに寄りたくなるものです。心は青春まっただ中。お小遣いも中学生の頃よりは増えている。雑誌を買ったりCDを買ったりいろいろしたい。ミスドでいつまでもカフェオレをお替りしていたい。ゲーセンに行って連ザやエゥーゴvsティターンズをやりたい。その全てが揃っているのがモアーズでした。
高校を卒業すると,東京市ヶ谷にある大学に通うようになりますが,やはり横須賀の人間には都会の空気が華やか過ぎて,どこかで息抜きをしたくなるものです。じゃあどこで息抜きするか。正解はモアーズです。ただし,当時のモアーズは夜8時に閉店していたので,5限の授業を終えて帰ってくると間に合わないのです。じゃあどうするか。5限の授業に出なければいい。出ないとどうなるか。4年生で40単位を取る羽目になりました。
その後,私は東京目白にある大学の大学院に通うようになりますが,常に規則正しい生活を心がけていましたので,平日は決してモアーズに寄らず,月末のいつも買っている雑誌を買う時だけ,モアーズに寄るようになります。この頃になると,5階にあった電気屋が撤退して古着屋とスーツ屋になったり,6階のCDショップが7階に移動して跡地が靴屋になったり,店舗レイアウトが様変わりし始めます。この頃は,いまはなき平坂書房の漫画コーナーに行って,「さよなら絶望先生」の単行本を買うのが楽しみでしたね。作者の久米田先生は,横須賀出身です。
大学院を卒業した年に司法試験に合格し,そのまま西の果て長崎県に赴任することになります。モアーズライフとのしばしの別れです。長崎では,夢彩都・アミュプラザ・ココウォークをはしごして,モアーズライフと同じような生活を送っていました。当時は,はじめての一人暮らし・はじめての仕事・はじめての大人の付き合いなど様々なストレスに見舞われ,それをショッピングで解消するという堕落した生活を送っていました。あのことにもっと貯金ができていたらなぁ。いや,あのときの散財のおかげで,死なない程度のお金の使い方を学びました。
修習終了後は期せずして地元横須賀に戻ってくることになり,その後独立開業して今に至ります。いま,事務所の脇を小泉進次郎候補の選挙カーが走り抜けていきました。戻ってきてしまったことに少し恥ずかしさは感じていますが,地元っていいものですよね。そうでなければ,モアーズ横須賀店開業20周年にも立ち会うことができなかったかもしれませんしね。
さてさて,それでは今から10月1日に買ったスーツの受け取りに行ってきましょうか。次に皆様にこのブログで会えるのは来週か再来週かはたまた来年か。
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